団体概要

ビジョン

「女性は太陽」である社会

子育て家族と地域がつながる相互支援を実現できる社会

ミッション

●妊娠期から切れ目なく、子どもを持つ家族の困りごとすべてに応じる、ワンストップの相談窓口ネウボラを作ります

●地域の力で子育てを支えるために、地域と密着した「お互いさま」の仕組み作りと理解を深めるための活動をします

●子どもを中心とした社会の形成のため、女性の仕事と育児の両立のため、男性と女性の相互理解を目指します

●仕事を望む女性が、望む仕事を持ち、望む能力を発揮し、自分らしく活躍するため、女性の復職・両立を支援します

●子どもを中心とした社会の形成のため、世代を超えた価値観・ライフスタイルの多様性との共生への理解を深めるための活動をします

地域と企業が支える、新しい家族支援

地域(ネウボラ)と企業(イクボス)による家族支援により、多様な家庭環境における、子育て状況や、働き方といったワークライフバランスの充実を実現します。

結果として、子育て家庭でなくとも、仕事と私事のワークライフバランスが充実する社会となることが期待できます。

ワークライフバランスが拡充することによって、子育て家庭が夫婦で仕事を抱えたとしても、子育ても介護も担える社会を実現できます。

さらに、ネウボラが、地域との連携した「子どもと家族を支える仕組みづくり」を担うことで、「地域の全ての子ども」を中心とした、包括的な社会づくりができ、少子化対策として永続的な取り組みとなります。

地域の顔が見える社会が形成されることから、域活性化の効果も期待できます。

「普通の子ども」、「特別な子ども」、といったくくりのない、ノーマライゼーション社会を実現することができます。

地域でつながる、地域と家族を結ぶネウボラ

妊娠期からはじまる子育てのスタートから家族を支えるワンストップ窓口として、小学校区、中学校区といった身近な地域で、地域社会や各機関と密着した「顔の見える関係」による「お互いさま」の仕組みつくりから、地域と家庭の相互支援を実現することができます。

代表挨拶

NPO北海道ネウボラ

代表 五嶋 絵里奈(ごしま えりな)

北海道子どもの未来つくり審議会委員

子どもとメディア北海道会員

札幌市子ども緊急サポートネットワーク提供会員

システムライフアドバイザー

【資格】

子育て支援員(子育て地域支援拠点事業、利用者支援事業(特定型))

【仕事・ボランティア等】

元児童発達放課後等デイ支援員

札幌市子育てサロンボランティア

乳児院軽作業ボランティア

【代表挨拶】

はじめまして、札幌市の市民活動団体NPO北海道ネウボラ(北海道ネウボラ研究会(準))代表の五嶋絵里奈(ごしまえりな)と申します。

当サイトへのアクセスをありがとうございます。

日本は、これから世界でも前例ない超少子高齢化社会に突入します。

私が小学生のころ家族ともに立ち寄った役所に「数年後には、高齢者1人をを若者3人で支える時代がきます」といったポスターが掲示してあったのを見た記憶があります。

今では1人の高齢者を1人の若者が支える肩車式になるともいわれています。

結局のところ、なんの実効的な対策がなされないまま、30年たってしまったということなのでしょう。

私が長女を妊娠し、保育園を一生懸命探したのは10年前。

保育や乳幼児への支援も10年前とはほとんど変わらないのが現状です。

このまま静観するだけでは、肩車式の社会が現実してしまいそうです。


少し長くなってしまいますが、「なぜこの活動を始めたか?」をお話してみたいと思います。


私は、20歳で高専を卒業し、3年間の正社員勤務後に、2年間の高専専攻科へ在学しました。

はじめて就職した時期は、就職氷河期という言葉が普及し定着した2000年。

就職できた先は、正直に言えば、望む就職先ではありませんでした。

いわば、就職リベンジのための復学です。


専攻科へは、トリプルワークしながら在学し、情報報工学学士を取得しました。リケジョと自称しています。

学んだことを活かして働きたいと、期待を胸に、地方から札幌へ再就職しましたが、入社してまもなくの結婚・出産を機に退職してしまいました。


今でこそ、「女性は結婚前にはキャリアプランを立てよう」と、呼びかけられていますが、当時はそのような言葉すらなく、子育てと仕事を両立するということが、こんなにも困難だということを想像できませんでした。


私は、2006年に長女が生まれて以来、良き妻、良き母、良き家庭を演じる努力をしてきました。

2009年生まれの長男が幼稚園を卒園するまでの約10年間、それらに縛られ、自分を犠牲に必死に頑張ってきました。

お母さんは頑張って当たり前、我慢して当たり前、そんな我慢を10年も重ねてしまいました。


地元から離れて札幌での子育てにより孤立を余儀なくされ、初めての子育てはわからないことだらけ。

退職したものの、専業主婦になるには、家計の状況が許さず、共働きを余儀なくされました。

長女の1歳を機にパート勤務の仕事へ再就職しましたが、実家はシングルマザー家庭。

親に育児を頼ることができませんでした。


夫の勤務先や、子どもの発達の状況といった生活スタイルに合わせて、私が自分の務める先を変えるしかありませんでした。 

引っ越し後、同じ職場にそのまま勤めたいと思っても、保育園の開園、閉園時間や、通園までのアクセスの悪さなどに阻まれて、辞めざるを得なかったり、仕事を変えざるを得なかったりしました。


結局、学歴を活かして、正社員になりたいと望んでも、

「子どもがいる。」→「いつ休まれるかわからない。」→「そんな職員を雇用するなんてとんでもない。」

と、面接では完全に門前払い。


パートとして勤める中であっても、「子どものために休んで申し訳ない」そういった状況が多くありました。


子どもがいるために、したい仕事を選ぶことすらできない。

通勤時間と、保育園・幼稚園の開園時間に合わせた、時間の短い限られた仕事を選ぶことしかできない。

休みをとっても気まずくならない職場でなければならない。


「子どもがいる」ということが、こんなに自分の人生にとっての足かせになるとは、思ってもみないことでした。


情報工学で学んだ知識も活かすどころか、限られた仕事の中から似通った職種を探すも、日進月歩にテクノロジーが進歩するITの知識を得るほどの業務には到底及びません。

このままパートを転々としたところで、キャリア形成にはつながらず。

私はこのまま望む仕事にチャレンジすらできないままに人生がおしまいなのだと、おおよそ絶望にも似た気持ちで日々仕事に従事していました。

「仕方なく選んでいる」仕事が楽しいとは思えません。

そして、その絶望的な日々の原因となっている「子育て」が楽しいと思えるわけがありません。


子どもたちは保育園の待機児童でもありました。

はじめは認可外保育園にも通わせていました。

幸い待機児童が解消して入園できても、結局園の教育方針と子どもの特性が合わず、気分の乗らない子どもを無理矢理に通園させる日々。

また、せっかく子どもの特性に良く合う園にめぐりあっても、認可ではない保育園だったり、幼稚園だったりするので、費用も莫大です。

当時からパートの手取りは月10万円ほどですが、認可外の保育園、幼稚園に何年も月5万円以上払っていました。


待機児童が存在すること自体は、そもそも大きな問題です。

ですが、「空けば入れてあげる」、そんなことを私たちは求めていません。

子どもにとって、一番良い環境を選びたい。そんな些細な親心すらも今の日本には求めることができないのです。

愛国心あれども、日本という社会は、私たち子を持つ親が望む、「子どもを中心とした社会とは大きくかけ離れている」と、残念ながら言わざるを得ないのです。


長女は発達障害のいわゆるグレーゾーンでしたが、初めての子どもなので、その状況が当たり前でした。

当たり前なので、困難なのではないと思っていました。

そのため、自分が大変苦労しているという状況に全く気付けずにいました。

そんな状況も一人で抱えて当たり前でしたし、また、一人で抱える以外にはありませんでした。

当時は、発達障害についてや、グレーゾーンといった存在すらも、世の中にはまだ情報も乏しく、相談先はもちろんありませんでした。

今も、発達障害の相談先は増えていますが、グレーゾーンの相談先はほとんどないと認識しています。

待機児童だったこともあって、保育園、幼稚園が合わず、色々な園を転々としました。

いま振り返ると、通常よりは困難な乳幼児期を送ってきたのだと感じます。


特に初めての子育てでは、当たり前の基準がわかりにくいということに着目しなければなりません。

二人目の子育てであっても、二人目の子育てということに対しては初めての経験となります。

それがさらに、母とは自分を犠牲に家族を支えるものだという信念と相まって、困難を見落としてしまう危険があります。

そういったところから、虐待、ネグレクトへとつながっていくものだと、自分の経験を通して気づきました。


それから、私たちは、少し上の世代の人たちが、家庭科と体育の授業が男女で別だということを知らずに育ってきました。

私は、家庭科も体育も同じ授業を受け、男女は平等だと習ってきたので、日本は男女の平等の機会が与えられている素晴らしい国なんだと信じていました。


でも、子どもを産み、目の当たりにした現実は違いました。


日本は、子どもを抱えながら働くことが難しい国だったんです。

「男性は外で働くもの」、「女性は家庭で夫をたて、子どもを育てるもの」が前提の社会だったんです。


「男女平等」とは、男女を単純に等しくすることではなく、男性である役割、女性である役割をそれぞれが担いながらも、男性が、女性が社会の中で、性差に関わらず、自らの生き方を選択できる権利を持てることなのではないでしょうか。

結婚、妊娠、出産、子育てという過程を通して、家庭(夫婦)というコミュニティの中で、子どもを中心としたの初めての「男女共同参画」によって、男女においての立場や役割の違い、価値観、権利といった相互理解が深まっていくのだと思います。


家庭科と体育の授業を男女等しく受けてきた、私たちの世代は、「教育」によって一転した思想、この「男女平等」という新しい価値観と、「男は外に出て働き女は家庭を守る」という古い価値観との間で苦しんで子育てしています。


でも、私はフィンランドの子育て支援施設ネウボラを知り、夢と希望を持つことができました。

この活動をしていると、「ネウボラは素敵だけど、フィンランドは税金が高いんでしょ?」と、よく言われます。

税金が高くても、保育園には確実に入所でき、保育園では朝食も提供され、大学まで無償で通えます。

国をあげて社会や地域が子育てを祝福してくれる世界がある。

「できている国がある」。その事実があるんです。日本でも絶対に実現できます。


乳幼児という社会的弱者を抱えて歩いていた、あのとてもとても辛かった時、誰かのちょっと支えてくれる、ちょっと助けてあげる、そんな「お互いさま」の「相互支援」の関係があったなら、私はどれほど救われたことでしょう。


バスでは、子どもが新生児だったにも関わらず、ベビーカーをたためと叱咤されました。

電車では、子どもがくつを脱ぎ捨てさせたり、泣かせたり何事かと、激怒され、車両を追い出されたこともありました。

今の私は、子どもたちが乳幼児だった過去10年間を、幸せだったと意味づけすることが出来ずにいます。

「子どもがいて申し訳ない」

仕事にいっても、外を歩いても、そんな気持ちでいっぱいで、ずっと不安な気持ちでいました。


「なぜこの活動を始めたのか?」


自分があの時、誰かにちょっとだけでいいから、支えてもらいたかった。

自分があの時、誰かに寄り添ってもらいたかった。

子どもが外で泣き叫んだり、お行儀が悪かったり、迷惑をかけたりしても、あたりまえだよ、大丈夫だよって、受け入れてもらいたかった。

私たち母子を社会の仲間に入れてもらいたかった。

子どもたちが小さくて可愛かった、あの乳幼児期のことを幸せだと思って過ごしたかった。


次の世代にこの辛い思いや後悔を引き継ぎたくありません。だから、この活動をしています。


お母さんが暗い思いや不安を抱いている中で、子どもが育つ社会が健全であるわけがありません。

お母さんの笑顔こそが、子どもと家族の幸せにつながるのだと信じています。


誰か一人でも、この活動から救われる人がいればいい。

そんな思いから始めた活動です。


どこかで子どもを連れているお母さんと出会ったときに、「迷惑じゃないよ」って声をかけたい。

私が、それをたくさんしたい、って思った。

ただそれだけなんです。


ですが、たくさんの共感をいただき、ここまでの大きな活動となりました。

私以外の誰かにも、どこかですれ違った母子に向かって「お母さん迷惑じゃないよ、大丈夫だよ!」って言ってくれる人が増えますように。

子どもを産み、育てたいと思える、明るい社会をつくりたい。

「誰か一人でも」という思いから、「もっと多くの市民」にとっての幸せになることを強く願うようになりました。

人口190万人都市札幌に、日本で厚生労働省の実施する日本版ネウボラ事業(子育て世代包括支援センター事業)を、フィンランドのネウボラの理念を損なわずに実現できるよう活動に取り組んでいきたいと考えています。